ABOUT
大正9年(1920年)兼重仲之進が創業して以来100余年、
終戦を迎え荒廃した郷土を立て直す・・そんな願いから再スタートした日立建設株式会社の歴史。
創業以来培われてきた地域社会への貢献という企業理念は今も変わらず脈々と受け継がれています。
建設業を通じてすみよい郷土づくりに貢献する企業をめざし今後も弊社をはじめ、グループ企業のそれぞれの技術とノウハウを生かしながら、郷土の未来の可能性や、さらに広く県域を越えた社会環境の充実に向けて挑んでいきます。
人の暮らしと環境の調和を図りながら、地域活性化プロジェクトなど様々な未来ビジョンをお手伝いしていきたいと考えています。
今日、そして明日からの日立建設にご期待ください。
1. 会社は誰のためにある?
株主のため、顧客のためと考える会社も多いが、日立建設ではやはりそこで人生をおくる社員のためにあると考えたい。
ただし、「会社が社員のためにある」つまり社員が主人公でいられるためには次の条件を満たさなければならない。株主、顧客、協力会社、銀行など会社を取り巻く人々や環境と対話をし、真剣勝負をしながら会社を成功に導くことである。周囲はそう簡単に成功を許さない。その葛藤の中で社員は鍛えられ成長する。理念だけで人は本当の成長をすることはできない。ひとつでも多くの社員の成長物語を作り出しながら社会に貢献してゆくことが日立建設の理想とするところである。
どんどん加速する時代に、中途採用、契約社員、下請け協力業者に比重を置き業容の拡大を図らざるを得ない企業が増えている。時にそのように対処するべき時期もある。しかし、企業がひとつの生き物として時代時代に果たすべき役割を知り成長してゆくとしたら、そこに働く人が成長してゆかなければならない。しかるべき時間をかけて、仕事を通して人を育てるという意思をはっきりと持つ企業でありたい。
2. ホスピタリティー
仕事上の真剣勝負をして負けた時に実に嫌な気分になったり、負けたにも関らず、すがすがしい気分になったりするのはどうしてだろうか。同じことを言われて「なるほど」と納得できる人と「ちょっと違うんだな」と感じてしまう人との差は何なのだろうか。
それはその相手に「ホスピタリティー」があるかないかではないかと考える。
仕事は真剣勝負である。勝負しながらも心からその「相手」を大事に思う気持ちがあるかないかで、同じ言葉でも相手に伝わるニュアンスが全く違ってくるのだ。短い人生で巡り会う人は例え競争相手であっても縁の深い人である。どんな人も自分と同じように家族がいて、悩みがあり、幸せになりたいと願っている普通の人間である。
そう思うと、勝負をしながらも爽やかな闘いをして「相手」と質の良い時間を過ごそうと考える。そしてそれが良い結果を往々にしてもたらすのである。人生の目的は「良質の時間」を過ごすことではないだろうか。思い出して楽しかったと心から感じられる時間を縁のある人達と持つことこそが本当の幸せではないだろうか。思い出して本当に楽しかったと思える時間というのはお互いに真剣に過ごし、感動し、愛し愛された時間ではないだろうか。そうだとすると「相手」に対してホスピタリティーの無い場面での成功は、例え成功であっても人生における意味はないとは言えないだろうか。
3. 人事
この社員は能力がありそうだと若手を思い切って抜擢して仕事をさせることが多いが、実際抜擢して仕事をさせてみないと能力ははっきりしない。2年も経過すると能力ははっきりしてくるし、その間に学習する人材はどんどん育つ。
しかし、2年ほど経過して期待したほどの能力ではなかったとの判断が下されれば、思い切って降格を命ずるべきである。このとき往々にして、その人物をそのままに、その上に屋上屋を重ねるように上司を配して問題解決を図ろうとすることがあるが、これは絶対にまずい。
コストの問題以外に、命令系統が複雑化し、組織全体が混乱、機能しなくなる。遠慮なくはずして降格するなり、他部署への異動を命じるべきである。企業としては果敢に抜擢するが、能力を懸念すれば思い切って降格を命じる。そして降格の命を受けたものは、これを良い経験としてその後の仕事に励み敗者復活に挑む。降格処分でその人物の評価を固定させるのではなく、必ず次の機会を与える。
企業風土として、これがあたりまえのことであるというものにしたい。
4. オープンな発言
日本人は周りの人に対する気遣いが強く、周りの人を傷つけたくないばかりにはっきりと物を言わないことがあるとよく言う。
その日本人が集まってできたのが日立建設である。だからこそオープンポリシーを日立建設のスタイルとして掲げたい。このオープンポリシーの第一歩は言いにくいことほど先送りせず、ずけずけ言ってはばからない。仲間に嫌なことを言うのは可哀相だからと、今日言うべきことを明日に延ばしてしまえば、かえってグループ全体を駄目にすることにつながる。延ばせば延ばすほど症状は悪化するし、挙句の果て、あまりに症状が悪化してしまって今度は死を宣告するようで怖くて何も言えなくなってしまうものなのだ。
一日延ばしに延ばしていたら結果良かったということも時にあるが、それは認めない。結果でなく考え方に重きを置く。昨今企業絡みでいろいろな事件が報道されるが、それらに接して感じるのは全部が全部、悪意から発した事件とは言えそうにないことである。なかには仲間に嫌なことを告げるのは明日にしようという優しさから生じてしまった事件もあるように思えてならない。
悪は誰から見ても悪なのでみんな警戒するが、本当の敵は善意からくる曖昧さなのかもしれない。
5. 人材?人財の育成
人は親に教えられ、先生に教えられ、友達に学び、本に学び育ってゆく。しかし同じ親に育てられ、同じ先生に教わった双子の兄弟が全く違う人間に育つことがあるということを思えば人は教えられ育てられるように見えて実は自分で選んでいるのではないかと思うことがある。親や先生の教えでも取り入れることと取り入れないことを選ぶ。
付き合う友達を選ぶ、読む本を選ぶ・・・どんな考え方に共感を覚えるか、何に感動するか・・・生まれた時から人それぞれの選択基準のようなものは備わっているのではないかとさえ思われる。これがその人が生まれ持っている個性というものなのだろうか。人において非常に大事なものはこのそれぞれの選択基準である。これは企業が育てることのできない領域である。麦は麦、米は米、小麦を大麦にすることはできなくても小麦を立派に育てる手伝いをすることはできる。企業が人を育てることはできなくても、育ちやすい環境を作ることはできる。
人の個性を見抜いてできるだけ育ちやすい環境を与えることは企業にとって重要なことではあるが、育つか育たないかは人それぞれの力によると思う。